影あそび

創作
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 今日も起きられなかった。もう何日も敷き放しにした煎餅布団に重い体を横たえたまま、私は思った。眼球を動かして窓の方を見やると、閉じたままの遮光カーテンの隙間から夏日が射している。時刻は正午をとうに過ぎているはずだ。布団の側に置かれたちゃぶ台には昨日食べたコンビニ弁当の屑が雑に散らばっている。

 鈍く痛む頭をかばうようにゆっくりと体を起こす。昨日も風呂に入らなかったから、髪はべとりと頭皮に張り付き、体は臭いままこわばっている。とにかく怠い。しかし昼間ならばシャワーを浴びられるから不思議だ。重い体をなんとか風呂場へと運ぶ。

 私は今年の春に23歳になった。新卒で就職した会社は1ヶ月と少しで辞めた。5月のゴールデンウィーク明け、通勤電車を無意識のうちに途中下車し、そのまま行かなくなったのだ。何度も震える携帯電話を手に取ることはできなかった。社会人失格。社会不適合者。そんな言葉が頭に浮かぶ。私はレールを降りた。いま私は親の金で生きている。

 シャワーを浴び、濡れた髪にタオルをあてて再び横たわっていると、インターホンが鳴った。この部屋を訪れる人は宅配業者のほかには一人しかいない。心配性の母は娘の顔を見にたびたびここへやって来る。

 怠惰な私とは対照的に、母はなんでも手際よく片づける。玄関の扉を開けると、母は単刀直入に用件を切り出した。「啓、出かけんね。」「……どこに。」「お母さんの知り合いのところ。」相変わらず唐突だ。私は母のこういうところが苦手だ。しかしもちろん今日も予定はなく、一人だと鬱々と布団の中で過ごすところだった。私は渋々といった風に答える。「……わかった。」

 母の運転する車は町を抜け、川沿いを走る。20分ほど経ち、雑木林に囲まれた一軒家に着いた。車を停めた母に続いてその家を訪ねる。「すみませーん、こんにちは。」と母が声をかけるが、家の中に人はいないようだ。しばらく待つと、たくさんの薪が積まれた奥の壁の方から人が現れた。「あら、いらっしゃい。お久しぶりですね。」小柄なその人は顔と体全体でにこにこ笑っている。長く伸びた白髪を頭の後ろでお団子にし、大づくりの刺繡がほどこされたつなぎを身に着けている。刺し子というのだろうか。おそらくこの人が自分で作ったのだろう、と私は思った。きっとこの人はいい人に違いない。

 「娘さんですか。」と聞かれ、母は「はい。」と答えながら笑っている。その少し後ろで私は人の目を見るのも怖く、おどおどしながらなんとか挨拶をした。「……はじめまして。啓と申します。」長らく私を巣食っている自信のなさが、声や身振りから漏れ伝わるような気がして恥ずかしい。その人は変わらずにこにこ笑って朗らかに言った。「啓さんというのね。洋子です。お母さんにはお世話になっています。よろしくね。」裏の林から涼しい風が抜けていく。その風を頬で感じながら、私はぎこちない笑顔を返した。

 久しぶりに他人と会い、すっかり疲弊して帰ってきた。洋子さんにもらった土をちゃぶ台の上に置き、私は床に三角座りをしている。外が暗くなってきた。私は夜が嫌いだ。暗闇が私の虚ろな心に忍び込むような気がして、ここにいることがたまらなく苦痛になってしまう。どこか遠いところへ行って、誰かとくだらない話をしたくなる。つらつら話をすることさえ、今の私には難しいことなのだが。

 洋子さんは器をつくって暮らしているらしい。初めて会った私にとてもよくしてくれ、大事な土を分けてくれた。土をこねるのに使う30センチ四方くらいの板と、土は乾かないようビニルに包んで。私の手は自然とその土に伸びる。褐色のひんやりとした土に両手で触れ、こねてみると、不思議と心が落ち着いてゆくのが分かった。

 夏の間、私はその工房に週に2回ほどの頻度で通った。何をするでもなく、ただ洋子さんの作業する姿を見たり、洋子さんとコーヒーを飲んだりしていた。洋子さんは、人と交わることが苦痛な私が、無理することなく付き合える唯一の人だった。

 朝晩の風が涼しくなってきた頃、洋子さんが言った。「啓さんにね、ちょっと手伝ってほしいことがあるの。明日マルシェに作品を出すから、売り子さんをしてくれない?」私は二つ返事で引き受けた。

 マルシェに向かう道すがら、洋子さんが言う。「啓さんは自分で何か作ったりはしないの。」私は子どもの頃を思い出しながら答える。「小さい頃、書くことが好きで……。ときどきおはなしをつくったりはしていました。でもいつの間にか書かなくなって……。」洋子さんの運転する車はガタガタ揺れる。マニュアル車にははじめて乗った。「書くことが好きだったのね。」「……はい。」私の胸に秘めた思い。誰かに話すことは恥ずかしいことだと思い、誰にも言ったことがない。しかし洋子さんだったら、笑ったり馬鹿にしたりせずに聞いてくれるだろう。それでも車の揺れる音にかき消されそうな声で私は言った。「……また書きたいし、いつか小説を書いてみたいと思っています……。」すると、洋子さんは事もなげに言った。「書いてみたらいいじゃない。」

 帰宅し、ちゃぶ台に向かって座る。いつぶりかの日記帳を開く。わずかでもいい、自分の言葉を記していこうと決めたのだ。つらつらと書いていて、あることを思い出した。大学生の頃、帰省した実家で一枚の写真を撮影した。重度の知的障害を持つ姉が光の差す絨毯に並べたいくつものコーヒーフレッシュ。それはどこか規則的な並びをしていた。薄いレースカーテン越しに白い光が射し、そのひだは焦げ茶の絨毯に斜線を落とす。側に姉が腰を下ろしている。白と黒でデザインされたコーヒーフレッシュを、姉は絨毯にゆっくりと並べてゆく。丸い影がひとつふたつと増えてゆく。ただ雑然と並べていたのではないのかもしれない。もしかしたら姉は光と影で遊んでいたのではないだろうか。彼女の目と心にはどんな景色が映っていただろうか。

 そのとき私はたいそう心を動かされたが、話し言葉にして誰かにわざわざ伝えることはしなかった。むしろ言葉にするとその美しさが損なわれてしまいそうで怖かった。それでも。あの日からちゃぶ台の上に置いてある洋子さんの土に触れると、私は深呼吸した。言葉になりそうでならない事々を私はやっぱり言葉にして生きてゆきたい。その日の日記をそう締めくくった。

※この文章はエッセイストの紫原明子さんが主宰する「もぐら会」の書くことコースで書いた文章です。テーマは「私にとって書くこととは」で、ショートショートを書きましょうという課題でした。

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